第八話 世なべて事も無し
車の中で、私たちは終始無言であった。
胸元の携帯電話がけたたましい音を立ててなる。リツコに急かされて私は受信のボタンを押した。
「…碇だ。」
『碇…。どこに行っていた。』冬月の声だ。
「江ノ島だ。」
『江ノ島という、季節か…。』冬月の声には笑いが含まれている。
「今の日本には、季節はない。」
『そうだな…。』冬月は柔らかくしわがれた声でつぶやいた。
「冬月…手紙は読んだか。」私は初めて少しだけ感情を出した声で言った。
『手紙…何のことだ。私は知らんぞ。』冬月はいぶかしげな声で言った。
「そうか…ならいい。」
『お前が居ると分かればそれでいい。私はもう寝るぞ。』面倒くさそうに冬月は言った。
「好きにしろ。」
リツコが代れと無言で催促する。私は携帯電話を手渡した。
「副司令。申し訳ありませんでした。」
「はい…分かりました。そのようにいたします。」リツコは丁寧にしゃべる。
「では、お休みなさいませ。」リツコは電話を切った。
「冬月は、何といっていた。」私は無表情な声でリツコに質した。
「司令がご無事であればそれでいい、後は司令の指示を受けろ、そうおっしゃっていました。」リツコは私の方をむいて報告をした。そして胸元に手を入れると一枚のカードを出した。
「司令の更新カードです。暗証のチェックをいたしますので端末にコードを御入力下さい。」リツコは事務的にカードと端末を私に突きつけた。
端末に数回打鍵し、リーダーにカードを通した。
そして、リツコはつぶやいた。
「娘さん…可愛かったですか。」リツコは冷ややかに笑っている。
私は無言でカードを見詰めた。
ＵＮ ＮＥＲＶ
ＩＫＡＲＩ ＧＥＮＤＯＵ
血の赤は褪せてはいない。私の血も、私の知らない、そして思い知った人々の血は今日も赤い。ただそれが分かった、いや、思い知っただけだよ。
私の繰り言は、言葉にはならなかった。
レイは私たちを冷ややかな視線で見ていた。
暗い部屋に老人は一人坐っている。
将棋盤は畳まれ、駒は箱にしまわれている。
老人は電話の受話器を置くと、めったに使われないクリスタルの灰皿の上に手紙を乗せ、火を放った。
暗い部屋に、明かりが点る。
「碇…。お前は自分の思いが光を放つ瞬間を、やっぱり見届けるべきだよ。」冬月の顔には乾いた笑顔が浮かんでいる。
「そして、その後にどんな灰が残るとしてもだ。」冬月は笑顔を失い、消え入るようにつぶやいた。
灰皿の中に白い灰が積もって行く。
『冬月先生へ』の文字はまだかろうじて読み取る事が出来る。
冬月は箸でそれを砕き、冷めた茶をかけて火を消し溶かした。
車は停まった。
ゲンドウはリツコとレイが降りた後に、おもむろに車内から姿をあらわした。
サマーセーターの上に、ボタンをかけない司令官公服を纏っている。リツコが前もって用意していたらしい。
車の前には、ジェットヘリコプターが停まっていた。
リツコは端末を抱え、先に乗り込む。
レイとゲンドウもその後を追う。
が、レイはふと立ち止まり、ゲンドウの方を振り返った。
「司令…私は、あなたの娘なのですか。」レイはほんの少しだけ感情をあらわし、ゲンドウに問い掛けた。視線は冷ややかなものではない。もちろん、彼女を知らぬものが向けられれば射抜かれるような冷ややかさがある事には、代りはない程度のわずかな変化だ。
「そうだ…。」ゲンドウは迷う事なくそう答えた。
「…うそ。」レイの表情は明らかにそう分かるほど感情的なものになった。
「嘘ではない。お前も、エヴァも、シンジも、ＭＡＧＩも、それは全て私の子供であり、私が求め続けたものであり、私の来るべき妻でもある。」ゲンドウは落ち着き払いサングラスを指で上げた。
レイは何も答えなかった。再び冷静さを取り戻し、前を向くとジェットヘリに向かって歩み始めた。
ゲンドウも同じ歩速で、その後を追った。
リツコはヘリの窓から二人の様子を見ていた。
そしてひとりごちた。
「レイ、あなたはやっぱりあの人の娘よ。私は、あの人のなんでも無い物…それが変わらないのと同じで、あなたは、あの人の娘よ。」
リツコは左手を目に当て顔を伏せた。
手にじわりと熱いものが染み渡る。
「あの人を、手のひらの上に載せた…。あの人を『操った』。そして、今度は、私の番…。母さん…、そうね、そうよね。」リツコは鳴咽した。
タラップから二人の足音が聞こえてきた。リツコは視線を上げると目をぬぐい、バイザーをかけ、端末に向かった。二人が後ろに坐る気配を感じながら、無意味な打鍵を繰り返しつつ。
マヤは朝を迎えた。
扉は開け放たれていた。
ガバリと飛びおき、部屋の表札を見る。
『仮眠室』
朝食は用意されていた。机の上に拳銃とＩＤカードが置かれている。
乱れた制服の型を手で直し、机の上の拳銃とカードをつかむと部屋を飛び出した。
途中で日向マコトが挨拶をする。
「マヤちゃん、おはよう、昨日徹夜だったんだって…大変だね。技術部は作戦が終わった後でも仕事が容赦無くあるからね…ほんと頭が下がるよ。」日向の笑顔はすがすがしい。
あいまいに挨拶を交わし日向と別れると、リツコの部屋へと直行する。
ネルフ本部には何事も無かったかのごとく朝の雰囲気が満ちている。
マヤは険しい顔で廊下を歩いて行く。
リツコの部屋に着くと、外出表示が出ている。
迷うことなく、カードをリーダーに通す。しかし、『拒否』の信号が点滅するだけだ。
「先輩…。」マヤはつぶやいた。
悲しげというより、その声には重い決意が込められていた。
僕は一体誰なんだろう。
『司令』みんなはそう僕に呼びかける。
ならば僕はきっとそうなのだろう。
僕にそう呼びかけなくなる日がくるとすれば、僕がそれを止める事が出来ないのだとすれば、僕の役割が終わったときなのだろう。
「…尋問を拒否するのか」冬月の表情は険しい。
「なに、老人たちには代りのものを差し出してある…。」
僕はなにをしているのだろう。
それでいいのか。そう問い掛ける事すら、僕の心はもうしようとはしていない。
冬月は僕の部屋から出て行く。
そもそもところでここは僕の部屋なのだろうか。
この広い空間は、僕だけのために用意された場所。
僕のためだけに用意された場所を『僕の部屋』と呼びうるのならば、確かに僕の部屋に違いない。そうだ、僕のためだけに用意された時間が、僕の時間に他ならないように。
欠けて行く、よじれて行く。僕の心も、周りのみんなの心も。
だから、そのために、それだからこそ僕はこの部屋で、この椅子に坐っているはずだ。
僕はひとりつぶやく。
「欠けた心の補完…不要な肉体を捨て、すべての魂を一つに…。」
エピローグ
ネルフ隔離施設。
『Ｅ計画担当』を解任された赤木リツコ博士が胎児のように丸くなり、ひとり坐っている。
彼女に会いに来たゲンドウは、何故ダミープラントを破壊したのか、を彼女に尋ね、彼女は『猫が死んだ…』、と言う正確な解答をした。
そうなのだ。暫く会わないうちにもう二度と会う事が出来なくなる…。
ゲンドウは全てを理解した上で、もう一度だけ彼女に理由を尋ねる。
『あなたに抱かれてもうれしくなくなった…』
それも極めて正確な解答であった。しかし、彼女の意図の通りに行動するゲンドウは彼女に失望を表明せざるを得ない。
そして部屋を後にする。
だが、彼が去った後のリツコの表情はしばしの鳴咽の後、何故かそれほど悲しげなものではなかった。
彼女は、盗聴マイクに聞き取れない程度のかすかな呟きを、監視カメラに映らないアングルでかすかに微笑みながらつぶやいた。
「あなたは、結局、そうなった。全てを失う路へと戻ってきた。」
リツコの表情はもうはっきりと笑顔といっていいものだった。決してそれは自嘲でもなければ、冷笑でもなかった。
「あなたは、全てを得るわ…レイもレイコも、ユイも、母さんも…そして、私も。」
リツコはつぶやいた。
「それは、私があなたを得たのと、同じ事。」
りっちゃん…。母さんはね、やっぱりあの人の全てを愛していたのよ。
そして、憎んでいた。
そうね、母さん。私も同じ。
あの人のそばに、いつも居る私よりも、今、あの人の心のそばに今こうしてたたずんでいる私の方が、私は好きよ。
りっちゃん…。私はレイに『悪い事』をしたわ。人間に『代り』なんていない事私が一番思い知らされていたはずなのに。
それは私も同じよ。
そうね。罪よりも、悪は続く。悪は、でもやはり人間の一部分なのね。
そうよ、母さん。それに気付いたの。私はだから、今幸せよ。
最後の『使者』…そして暫くの眠り。
眠る事は、決してたやすい事ではない。
しかし、リツコは一滴の涙とともに、安らかな表情で丸くなって眠った。
暗闇の中で。時は既に『秤られた』後で。
新世紀エヴァンゲリオン列伝
其の壱 巻ゲンドウ
「逃げちゃだめだ、ゲンドウ」
または
ＢＥＴＲＡＹＥＲＳ ＯＦ ＴＨＥ ＴＲＵＴＨ
ＴＨＥ ＥＮＤ
mail to:RXE07760@niftyserve.or.jp