第五話 偶然、心、求めて
少女の後ろ姿を追うのも後数秒だ。
ゲンドウは彼女が与えてくれた回顧を少しだけ苦く、しかしすがすがしく感じながらこれから遠くなる背中を追っていた。
流れに従い、ふたりとも改札に向かう。新片瀬江ノ島駅の改札は一つしかない。
ゲンドウは改札間際で立ち止まり、新聞を畳み、鞄にしまった。前を行く少女はその間に改札をくぐり、向かうべきところに向かうはずである。
そして、ふたりは二度と出会う事はないのだろう。
ゲンドウの心はゆれた。しかし、彼女をこれ以上追って行く事をしても何があるのかといえば、少女の心に無用のおびえをもたらすだけだ、という事も明らかだ。満ちた時はしかるべく過ぎて行くだけなのだ、例外はない。ゲンドウは寂しげな微笑を浮かべながら鞄を開けるために俯いた。
そしてしばらく鞄の中を引っ掻き回し、何かを探す事にした。本、いくらかの着替え、現金。洗面用具。物欲というものにもはや懐疑を抱かざるをえないゲンドウは特に変わったものを所持しているわけではない。護身用の器具もかねてから身につける事を好まなかったくらいであるから、この期におよんで入っているわけもない。
まるで、自殺志願の失業サラリーマンのような荷物であり、目的のない旅というものが何を象徴しているかが暗示される鞄の中の光景であった。ゲンドウの表情は特にこれ以上曇るでもなく、鞄の中から飴を見つけ、ゆっくりをそれを取り出し、ほお張ろうとして、顔を上げた。
「…。」
ゲンドウの心は意外さに支配された。
薄暗い隔離施設の中でマヤは俯いていた。
その手にはもう手錠はなかった。ベッドにも清潔な寝具が用意されており、明かりも点ける事が出来た。しかし、マヤは明かりを点けず、椅子にじっと坐っていた。
隔離室にはコーヒーメーカーと豆をひいた粉が用意されており、冷蔵庫の中にはミネラルウオーターと氷があった。真田三尉は夕食を勧めたが、純粋に食欲のわかないマヤはそれを断わった。真田はそれにいささか戸惑ったようだったが、マヤの気持ちを察したのか無理には勧めず、密封された簡易軍事携帯食とチョコレート、そして缶入りの野菜ジュースを何も言わずに置いて部屋を出ようとした。
出際にマヤは真田を止めた。
「真田三尉。私がこの場に、この時刻にいる事は、計画のうちなのですか･･･。」マヤの表情は拘束時よりも一層曇っていた。
「…。伊吹二尉、あまり考えすぎない事です。知ろうとしすぎる事、知りすぎる事が、どれだけつらい事かは、あなた御自身が目の当たりにしている、そしてその身に刻み込まれた教訓だと思います。」真田は少しだけ俯きマヤから視線を逸らしつぶやいた。
「私は、科学者です。知る事の辛さに曖昧さがない事はよく知っています。それに耐える事はその立場の前提です。」マヤは少しだけ視線を強めて真田を見据えた。
「貴方が見て、知った事、それがすべてです、そうとしかお答えできかねます･･･。」真田はマヤからかすかに視線を逸らし、言葉を続けた。「私は、科学者ではありません。軍人です。知らなくてもいい事、言わなくてもいい事に興味を持たない事も職掌の内です。そして、貴方の外見と立場も、またそうな筈です。貴方の内心の立場には職掌として同意しかねます。残念ながら。」
マヤは俯いた。真田は部屋を出るまえに一言だけを残していった。
「このような状態を強制しておきながら偽善的ですが･･･。よい眠りを。」
マヤは顔を上げ、真田を見、答えを返した。
「あなたも。…気をつけて下さいね。」マヤは少しだけ無理をして笑顔を浮かべた。
真田はかすかにうなずくと敬礼をし、部屋を出た。
マヤも敬礼を返した。
今は何時なのだろう…。
マヤは部屋の中に時計を探したが、それは置かれてはいなかった。
真田が点けていった明かりを消し、椅子に腰を下ろすとマヤは俯き、考えはじめた。
おや…。
なぜ彼女はまだそこにいる。
早く帰らなくちゃ。夜はもう遅い。何を改札でぐずぐずしているのだ。
目線を合せてはまずい。とりあえず…新聞を使おう。
ゲンドウは新聞を再び取り出した。少女は閉じた改札にもたれかかりながら、何かを探しているようだ。ほんの少しだけ今までの落ち着きを薄らがせ、いささかせわしげにポケットに手を入れたり、鞄を開け、のぞいたりしている。
忘れ物かな、…う、視線が合う、まずいまずい。
ゲンドウはまるで、初恋の相手を追う視線のように眩しそうに新聞の蔭から彼女のありさまを覗き見ている。
少女はどうやら意を決して改札のほうに向かった。しかし、駅員は彼女を止め、通そうとはしなかった。どうやら切符か、定期券を無くしたらしい。彼女は頻りに駅員に頭を下げている。しかし、駅員は首を振り、事務所のほうを指差している。彼女は俯き、どうして良いか分からずに立ちすくんでいる。
ゲンドウは、足を不意に彼女のほうに向けた。
彼女との距離は１０メートルも無かった。新聞を捨て、鞄を軽く持ち上げるとごく自然に改札の方に足が向かっていた。まるで、ホームで少しだけ用を足していて、改札に向かうのが遅れた客のようにゲンドウは改札へと歩んだ。
「どうしたのですか…。」ゲンドウは切符を差し出しながら小声で駅員に尋ねた。
駅員は少し戸惑いながらも事情を話した。
「ええ、こちらのお嬢さん、切符も定期券もお持ちでないです。本人は定期を学校に忘れたといってるんですが、お金の入った財布も一緒との事です。で、連絡先を尋ねたら、言っても仕方が無いとおっしゃるんで…。少し事務所で事情を伺おうとしていたところなのですが…。」
「いくらですか。」ゲンドウは小声で尋ねた。
「乗車場所が特定できませんので…。強羅からだとしたら２５４０円です。」
ゲンドウは５千円札を出した。
「…足りるかね。」
駅員はいぶかしげな表情をした。しかしすぐに釣りをだそうとしたが釣り銭箱の中にはたまたまお金が入っていなかった。駅員はすぐに事務所へとりにゆこうとしたが、ゲンドウはそれを止めた。
「いや…いい、迷惑料です。」ゲンドウはサングラスを指で少し上げた。
「そんな訳には…。」駅員は困惑した。
「じゃあ、そこにある３０００円のロマンスカードをもらおう。後１０４０円…。」ゲンドウは更に金を差し出した。
「あ、どうもありがとうございます。」駅員は困惑していた表情を少しだけ和らげた。
少女はゲンドウが近づいてから少し離れて成り行きをずっと見ていたが、駅員が少女に通って良い、という仕種をするのを見て、ようやく自分の事をこの男が話していたのに気づいたようだ。
ゲンドウは少女のほうを見ず、背を向けてそのまま歩き出した。
先輩。知られたくない事に、私を携わらせてもいいんですよ。私はただ考えるだけです。納得の出来ない事でも、そうやって精いっぱいやってきました。もちろん、レイや、チルドレンの顔を見るたびに、心はゆれますし、私の考える限り今この組織がしようとしている事は全体として何かとんでもない方向へと向かっているような気がしてならないんです…。
でも、先輩もそれを知りながら、それに心を痛めながら、心に何かを隠したまま、『その先』をご存知の上で何かをなさっておいでなんですよね。もちろん、司令や副司令もそうでしょうけれども･･･。
私もそれを知った上で、納得した上で自分の行動を決めたいんです。先輩はそれ許してくれない…、つまり、それを知ってしまえば私が先輩とは違う方向に行こうとする事が先輩には分かっているんですね…。確かに私は、ダミープラグ制作の時点で私は既に納得の出来ない事を貴方に告げたのだから…。
先輩…。私ももう汚れているんですよ…。レイも、チルドレンも私のした事で一生私を『人間』扱いしてくれなくても私には納得出来るもの･･･。その上、まだ何かがあるんですか。
その上まだあの子達も、私たちも迷い続けて、結果に怯え続けるんですか。
それほどまでして求めなければならない真実･･･、贖わなくてはならない『人類の補完』それは一体何なのですか。
私にはもう分かっている。先輩。貴方も迷っている、そして苦しんでいる…。私が何も知らないコンピューターがうまいだけのお嬢ちゃんだと思ってるんですか…。
いいえ、先輩、貴方はそうも思っていない。私が苦しみ、悩む事も貴方は知っている。
そして、人の悩みや苦しみが決して贖えるものでもない事も、貴方は知っている。
だから先輩、私は貴方の事が大好きなんです。
大好きだから、もう信じません。
私の指先と頭脳で、たどり着けるところへたどり着きたい。たどり着くべきところへと…。
マヤは、真田の置いていった食料を見、立ち上がるとチョコレートだけを手に収め、冷蔵庫からミネラルウオーターを出し、コップに注いだ。
真田さん…科学は科学者の信念だけのものではないのよ･･･。先輩の苦しむ姿、それは科学者の苦しみ、そして人間の苦しみ･･･、女の苦しみ･･･。
どんなに惨い事実でも事実は、事実。逃げちゃいけないのじゃなくて、逃げられない、逃げる必要もないただ惨いだけの事実。
それをどう受け止めようとするかによって、『真実』は決まってしまうのよね…。
先輩、真実へ貴方は迫っていますか。貴方の真実は何なのですか…。
先輩…。
それでも、がんばって下さい…。
マヤはかすかに微笑んだ。
彼女はチョコレートを一つほおばると、水を口に含んだ。
そして、左頬に軽く手を添えるとかすかに俯き、そっと目を閉じた。
血を流さない女なんていない…。ですよね…、先輩。
マヤはチョコレートを飲み込むとまた表情を曇らせ、俯いたまま椅子に深く坐り続けた。
リツコは携帯端末に入る情報を眺めながら、中型のジェットヘリコプターの中で椅子にもたれていた。
後ろの座席にはレイが身じろぎもせずに静かに坐っている。
どうやらマヤはカスパー３を介してＺバンクとＥバンクに心理データをもとに検索をかけたらが、表示画面を見ることなく諜報部によって拘束されたらしい。彼女は何かに感づきはじめたらしいが、決定的な情報は得られなかったようだ。
「用意しておいてよかったわ…。」リツコは疲れた笑いを浮かべた。
マヤが何を考えているのかは、リツコには分かるような気がした。それだけ自分が彼女の心を踏みにじった行為をしている、そして彼女が懸命にそれを理解しようと試み、自分を理解しようとしている事が。
「食事はしているかしら…。」リツコは笑った。その笑いは疲れだけではなく、自嘲も込められていた。マヤがそれどころではない深い悩みを抱いている事は、自分が一番よく分かっているのだ。
携帯端末から電子音がなり、数行の文字が表示された。
『…目標予定時刻に予測地点に到達…。』
リツコの表情から笑顔が消えた。自分のシミュレーション、『母』の分析通りの行動をとる『目標』。
彼女は苦笑よりも嫌悪感と戦うほうに心が向かっていた。
「母さん…。それでも貴方はあの男に会いたいの…。」リツコは無表情につぶやいた。
私は、それでもあの男に逢いたいのかしら…。
リツコは目を細め、軽く俯き、目許に手を添えた。組んだひざの上のさほど重量のある訳ではない携帯端末の重みがはっきりと感じられる。
リツコは通信回線を開き、指令を出した。
「目標捕捉完了…。作戦は可及的且つ速やかにフェイズ３準備に入ります。当機現地到達後追って指示を出します。以後目標捕捉のまま指示を待ちなさい。」
「作戦開始時刻は…。」端末に『ＳＯＵＮＤ ＯＮＬＹ 音声』示された諜報員は更なる指令を待った。リツコは数秒沈黙の後つぶやいた。
「追って指示を出すまま指示の作戦を継続…。」
端末は無機的な声でつぶやいた。
「了解」画面から表示が消えた。
あなたの時間、あなただけの場所…。
きっとあなたはそれを求めている。ＮＥＲＶ全てがそれであるかのようにあなたの部下全てがきっとそう思っている。
あなたはそれを知っている。そして自分の心に「そうだ」と言い聞かせている。
でも、私は知っている。
あなたの心の軋みを。あなたの償われない思い出と夢を。
私のからだをどれだけ汚しても、満たされない欲望を…。
どれだけたくさんの人の血でも贖いきれない心の隙間。
追い込んであげる。あなたの心を。『聖域』に逃げ込もうとするあなたの心を追って、私はあなたの心を初めて『踏みにじる』。
恐いわ…。あなたが今までなぜそんな事が出来ていたのか分からないほど、恐い…。
もう人を愛せなくなるかも、と思うだけでも恐怖なのに、確実に人の心をずたずたにする事、それを確信犯でやり続ける…。
今までは、あなたのため…そう思えた。
でも、今は違う。
私のため、私のため、私の満たされない心のため、あなたを手に入れたい、それだけ、ただの欲望。ただのわがまま、只の『情念』、そして、敵意…。私だけのためのあなた。それを手に入れるため。そのための空しいあがき…。
いいの、それでも。
あなたがダミープラグの中に無数の『レイ』を植え付けさせたように、
私も、ただあなたの『器』だけを手に入れる…。抜け殻だけでも、せめて、手に入れる…。
せめて…。
リツコはじっと俯きながら、紙コップのコーヒーの香りを嗅ぎ、すすった。
レイは椅子の隙間から、その背中を冷たい赤い瞳で見詰め続けていた。
僕は海の香りに包まれている。
少し生臭く、生き物の存在と苦しみと、そしてその場所での人間の生活を象徴するあの匂いだ。
海が近い。迫った海岸線の向こうに廃ビルが浮かび、その向こうにかすかに島影が見える。
一本の橋が、その方向に伸びている。
僕は、ここに何しに来たのだろう。
こんな時間に、こんなところへ。
冬月先生。あなたは、今の時間はもうお休みでしょうね。非常事態でもなければ…。
非常事態、司令の失踪。そうだとすれば、あなたは司令室でまた、趣味の詰め将棋をなさりながら、連絡を待っていらっしゃるのでしょうか…。
でも、僕は今、あなたの事を思いやるよりも、海の香りをいま少しだけ感じていたい。
シンジや、レイ、そして弐号機パイロットのことよりも、自分の心をただ海の香りに染めていたい。
僕は、また、逃げています。
『あの日』のように。
『あの日』から、僕は立ち向かうそぶりをうまく身につけ、そして逃げ続けているだけかもしれませんね。今や、逃げる事にも疲れ逃げる事からも、逃げている…。
笑ってしまいますね…。
でも僕は笑えません。
海の向こうに、まだ逃げる場所があるかもしれない…。淡い期待すら僕は抱いてしまいます。
僕を受け入れてくれる世界のためにだけ、無数の人々の屍の上に築き上げた臆病者の楽園。
それを捨てようとして、またそれを作ろうとしているのですね。
リツコ、君は、僕を許していない。僕にすべてを許そうとしたいから、絶対に僕を許しはしない…。惜しみなく愛は全てを奪う、僕たちはそう信じるまでも無く、お互いの暖かみを奪い合っていたね。その愚かさに食傷しながらも、君の母さんを死に追いやった時と寸分違わぬこの僕と。
ＭＡＧＩ、僕はどうやらお前の手のひらの上だ。お前は決して僕を逃しはしない。例えカスパー３が見逃してくれても、メルキオール１もバルタザール２も絶対に私を許しはしないだろうからね。
さあ、後きっと数時間…。僕はどこをさまようのだろう…。
さ迷う事が、許されるのだろう…。
不意に私の背中に声がかかった。
落ち着いた、どこかで聞いた事のあるような声だ。
「…ありがとうございました。ご迷惑をおかけしてすみません。」少し低めだが、どうやら少女らしい声は、息が上がっている。
私は振り向いた。
『少女』だった。
新世紀エヴァンゲリオン列伝
其の壱 巻ゲンドウ
「逃げちゃだめだ、ゲンドウ」
または
ＢＥＴＲＡＹＥＲＳ ＯＦ ＴＨＥ ＴＲＵＴＨ
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