第七話 メネ・メネ・テケル・ウ・パルシン
ご注文はお決まりですか？
…かしこまりました。
繰り返します。『和風ハンバーグセットお一つにネギトロ丼セットがお一つ、食後にコーヒーお一つ、クリームチーズケーキと紅茶がお一つ』以上ですね。
しばらくお待ち下さい…。
リツコはレイとともにホバリングするジェットヘリコプターから小舟艇に乗り移った。
二人とも冷たい表情のままお互いに口一つ聞かない。
黒い穏やかな水面を船は浜辺へと向かい、滑って行く。
船はどうやらＭＡＧＩにナビゲートされているらしく、リツコもレイも操作をしていない。ただ、穏やかに水面を滑るのみだ。
右手に新江ノ島とそこに架かる橋が、やはり明るく浮かび上がっている。
無言の二人はただ刻む時の一瞬を生きているだけのようだ。
浜辺で、船は止まり、二人は船を捨てた。
積まれていた器材をリツコはおろし、雨にぬれた浜辺にシートを引き、機械を守った。
アンテナがすばやく伸び、携帯端末が簡易デスクの上に置かれた。折り畳み椅子にリツコは坐り、すばやく打鍵すると、端末はテスト信号を発信した。
ディスプレイに表示が出る。
『Ａｌｌ Ｒｅａｄｙ．』
リツコはそれを見ると少しだけ眉を動かし、その後に冷たい笑顔に戻った。
レイは後ろで手伝う訳でもなく、作業をするリツコを黙々と眺めている。
赤い瞳に、感情は浮かんでいない。
「あの人は、近くにいる…。」レイは無感情につぶやいた。
「そうよ…。距離に関係無く、あの人はいつも私たちのそばにいる。」リツコは背中を向けたまま言葉を継いだ。「ほんの少しの空間距離、無限の心理的距離、そして、予定調和的な時間距離…あの人は、あなたの言うとおり、それでもあなたのそばにいる。」
レイは緘黙した。
「…でも、私のそばにいたとしても、私のそばにはいない。」リツコは表情をレイには見せず、誰に語るでもなくつぶやいた。
「今日、この手のひらの上に、あの人を乗せる。」リツコは歌うようにつぶやく。
ディスプレイにＣＡＬＬサインが表示される。
リツコはキーを押した。
『ＳＯＵＮＤ ＯＮＬＹ 音声』のウインドウが開く。
「音声回線は開けたの。」リツコは相手が名乗る前に冷たい声で質した。
「申し訳ございません…。目標及び接触者はファミリーレストランに入りました。集音機を使用できる状況ではありませんので、音声の捕捉は不可能です。」声は無機的に報告する。
「盗聴機は。」リツコはつめをかんだ。
「設置を許す目標ではありません。」声は更に無機的に報告を重ねる。
「…わかりました。目標の移動とともに、集音を開始しなさい。」リツコはなじるような声で命令した。ウインドウはかすかな音を立てて消えた。
再びディスクトップにウインドウが表示される。
『人工知能バルタザール、分析予約事項に関する分析結果を転送中…。転送完了…。』
デスクトップに別のウインドウが開く。
『目標接触中の女子高校生と思しき接触者に関する諸元。
Ｎａｍｅ：ＲＥＩＫＯ ＨＡＭＡＮＡＭＩ 『浜波 レイコ』
Ｓｅｘ：Ｆ 『女性』
Ａｇｅ：１６ 『１６歳』
Ａｄｄｒｅｓｓ：５−＊＊ Ｓｉｃｈｉｒｉｇａｈａｍａ−ｈｉｇａｓｉｄａｉ Ｓｉｎ−Ｅｎｏｓｉｍａ−ｓｉ Ｋａｎａｇａｗａ−ｋｅｎ ＪＡＰＡＮ
日本国神奈川県新江ノ島市七里ガ浜東台５−＊＊
ＴＥＬ．Ｎｕｍｂｅｒ： ０４６７−＊＊＊−＊＊＊＊
Ｓｃｈｏｌｌ： Ｉｓｅｈａｒａ Ｈｉｇｈ Ｓｃｈｏｌｌ 『神奈川県立伊勢原高等学校』
Ｆａｍｉｌｙ：Ｎｏｔ Ｆｏｕｎｄ 『該当無し』
Ｐａｓｔ Ｆａｍｉｌｙ：ＳＩＧＥＡＫＩ ＨＡＭＡＮＡＭＩ （Ｆ．Ｄ．）
『浜波 シゲアキ 父 死亡』
ＳＡＥＫＯ ＨＡＭＡＮＡＭＩ （Ｍ．Ｄ．）
『浜波 サエコ 母 死亡』
ＨＩＲＯＭＩＣＨＩ ＨＡＭＡＮＡＭＩ（Ｅ．Ｂ．Ｄ．）
『浜波 ヒロミチ 兄 死亡』
以上諸元の報告。詳細は該当事項をクリック。』
リツコはとりあえず『Ｎａｍｅ』をクリックして写真表示を求めた。
表示された映像を見て、リツコは打鍵を暫く止め、食い入るように映像を見詰めた。
そして、レイに声をかけた。
「見てごらんなさい…。」リツコは呆けたような笑顔を浮かていた。
レイは怪訝そうな表情で表示を眺めた。
レイコは笑顔を浮かべてゲンドウを見つめている。
前にはチーズケーキと紅茶がある。
食事はもう終わり、ゲンドウの前には微かにコーヒーの湯気がたなびいていた。
ゲンドウは硬い表情だが、どうやら笑顔にみえる様子で、レイコを見返していた。
僕は彼女の笑顔を見かえしていた。
美しい笑顔。レイの漂わせている高貴な孤独とも、ユイの思い出とは分かちがたい温かく理知的な笑顔とも違う、それらが交じり合った物で、そしてやはり別の笑顔。
「碇…さん。」レイコははっとして、少し頬を赤らめた。「何故私をそんなじっと見詰めるんですか…顔に何かついていますか。」また笑顔に戻ってレイコは僕に語りかけた。僕の心臓は激しく脈を打っている。この動悸は、一体なんなのだろう。久しく体験していない感情と交錯したものだ。
レイコは目の前のチーズケーキをフォークでつついた。少しだけ切り取り、ほおばると、口の中で広がる味を楽しんでいるのか、笑顔がすごく眩しく見える。女の子は甘いものを食べる時、とっても幸せそうな表情を浮かべる。なんだか、とても懐かしい光景だ。
僕は無言のまま、目を細めて笑った。
レイコは僕から返事を待っていた。
「碇さん、どうして、私の顔を、…そんな風に見詰めるんですか。誰か知っている人と似てるとか…。」レイコの笑顔は少しいたずらっぽくなった。
「…何でもない。ただ…」僕は零れ出る笑顔を無理に引っ込め、そうつぶやいた。
「ただ。」レイコは僕の顔を覗き込む。
「…自分の…娘のことを思い出しただけだ。」僕の表情は少しだけ苦い物が混じった。
…あなた、名前は決まったの。
息子だったらシンジ、娘だったらレイと名づけよう…。
「娘は、君くらいの年だ…。」僕は少し寂しげな笑いを浮かべている。
娘、レイのことか。
レイ、 おまえをこの世に『生んだ』のは確かに僕だ。おまえはそういう意味では確かに僕の娘に他ならない。おまえはそれだけでない、ユイの形を持つ、ユイそのものに他ならない、かけがえの無い僕の守るべき物なのだ。そして、僕の計画の忠実な遂行者にして『鍵』でもあるのだ。
娘である以前に。
でも、レイ、やはりおまえは僕の娘だ。もう心をごまかすことはできない。おまえを失うことが、たとえおまえが再び生まれるとしても、僕の心をこれほど揺らすことになるとは思わなかった。やはりおまえに僕は『形』を求める以前に、『鍵』を求める以前にユイと僕との娘であって欲しいし、僕はそう思っている…。
おまえは、それを信じてはくれないだろうが。
「碇さん…やっぱりさびしそう。」レイコは笑顔をひそめ、つぶやいた。
「…。そう、見えるかね。」僕の笑顔はやはりかすれているようだ。
「娘さんは…、どんな方なんですか。」レイコはいささか心配そうに笑顔を作るようにして僕にたずねた。
「…。寂しそうで、素直な子だ。」僕は精いっぱいのことを言った。「頭も、いい。だが…、人から愛されることを知らない。そして、私は彼女を十分に愛してやれない。寂しい思いをさせている。」
僕はいささか驚いた。自分の口からどういう言葉が出ているかがよく分からなかった、というより、その意味が自分で把握できなかった。
レイコはうなづいてきいていた。そしておもむろにつぶやいた。
「私のお父さんも…きっと寂しかったんですね。私に何かをしなきゃと思いながら、碇さんみたいにもどかしい思いをしながら、何もできない、していないと思って。」レイコは深い思いに沈んだ表情でつぶやいた。「私は、ただ、お父さんがいて、そばにいてくれるだけでいいと思ってた。でも、お父さんにとってはそれが一番出来ない事だった。だから、とてもつらそうな背中を向けていつも仕事に出かけた…。」
僕は、レイコが父について語るのがつらかった。彼女が自分を開けば開くほど、彼女の大切なものを奪い続けてきた存在が自分に他ならないと深く自覚させる…そして僕は彼女に対してまるで父親のように接して、彼女の心を守る存在として緒立している。
すさまじい、皮肉だ。
レイコは僕の葛藤の中身に気付くはずはない。僕の苦しそうな面持ちを気遣いながらも言葉を継いで行く。もうその時には内面の葛藤を私は冷たい仮面の下には隠せなくなっていた。
「碇さん…。お父さんはなんで死んでしまったんでしょうね。」レイコの視線が暗くなった。僕はまるで彼女の視線が『裁き』の視線のように感じられた。私の頬に一筋の冷や汗が流れた。
「…やはり、誰のせいでもないんですね。」彼女は視線を再び明るくし、笑顔を取り戻した。「私、今、神様を信じてるんです…。どんなにつらい事があっても、どれだけ自分が不甲斐なくても、次々といろんなものを失っていっても…、それでも、幸せになれる、そう信じてゆかなくちゃ、幸せになりたい自分を大切にしなくちゃいつまでも暗い世界に取り残されたままになってしまう…そういう風に考えてるんです…。」レイコは微笑んだが、少しだけ寂しさがその笑顔には混じっていた。
「そうやって、幸せを探していると、ほら、こういう風に時々神様が御褒美をくれるんです…。」レイコは笑顔から翳りを払いのけにっこりと僕を見詰めた。
「神様…か。」僕は少し呆けたような表情になり、レイコの笑顔を無抵抗に見かえした。
「こうやって碇さんとお話できて、自分の心の抱えてるものをうちあけられて、神様から御褒美がもらえるんです。」レイコは明るく微笑んだ。
僕は震えていた。笑顔でも、無表情の仮面でも、冷静さでもその震えを抑えられなかった。しかし、その『震え』をせめて彼女を思う気持ちだけで抑圧していたが、それも不完全なもので、小刻みに時折テーブルの下の手が震えてくるのが自分ではっきり感じられる。
「神様がくれるものはいろいろあります…。こうやって碇さんとお話できたのも、そして、父が私が暮らしてゆけるように保険を残してくれたのも。学校に通える事も。」
僕は心底自己嫌悪をした。彼女が感謝しているものは『欺瞞』に対してだった。彼女は僕がごく無感動に判を付いて承認したある事項に感謝していたのだ。
「浜波シゲアキ『行方不明』事件に関する追加措置。
未成年の遺族が判明したので、保険の形を擬制し、保証金を下付する。」
レイコは僕からつと目をそらし、新江ノ島を見詰めた。まるで何かを求めているように。
僕も江ノ島の方をむいた。黒々とした島影は、所々に明かりを飾っている。彼女は今なぜこの島を見つめているのだろう。
僕は、つぶやくようにかすれた声で彼女に呼びかけた。
「江ノ島に、行きたいのかね。」僕は言ったとたんにその言葉が『一緒に江ノ島へ行こう』という誘いを意味している事に気づいていささか苦々しい思いを感じた。これ以上彼女の思い出に入り込む事をして、一体何になろう…。
レイコは少し驚いてこちらに向き直った。彼女はどうやら少しでも長い間僕のそばにいたいようで、とくに嫌はない様子である。しかし彼女の反応はただそれだけのものではなかった。
「私、とてもうれしい…。」レイコは目をつぶった。「小さいとき、お父さんが江ノ島に連れていってくれたんです。今住んでる家を買う下見だったと思います。そのついでに、私が遠くにみえる江ノ島を見ていたら『行こうか』って行ってくれたんです…。」
もはや、行ってみたいかどうかをただ聞いただけというわけにはいかなかった。僕は、また『失言』をしたのだ。
彼女の思い出に、自分はより深く入ってゆこうとしている…。それを自分の立場を棚上げにして望んでいる。
僕は自分に『残された』時が今終わろうとしているのを実感した。
リツコは足を組み、少し目を離し、やや遠目でじっと端末を見ていた。
レイはその白衣の後ろ姿を立ったままやはりじっと見つめている。
浜には人影はない。あったとしたら展開済みの諜報部職員が排除していただろう。
この甘ったるい『逃避劇』の終止符をリツコは手元のキー一つで終わらせる事が出来る。警察官に偽装した諜報部員が令状を掲示しゲンドウを連行すれば、それだけですむはずだ。『浜波レイコ』には逃亡中の犯人である旨を告げて時間の猶予無く立ち去る事を指令すればよい。
もし、彼女が不信をもち、何か不審な動きを見せるのなら洗脳し、記憶を消去するだけの事だ。ゲンドウの行った行為は『敵前逃亡』なのだ。彼が『司令』の立場を拒否するのならば銃殺であり、その立場を全うする事を飲むのならば、いかなる作戦行動に対する否定も許されない。
つまり何の問題も生じないのだ。
しかし、リツコはキーを押さない。ただ、ゲンドウの動きを捕捉し、その機械を探るように、またその『逃げる』ゲンドウの姿を観察するように画面をただ見続ける。
時折諜報部員が話している中身の断片を文字情報に変換し送信してくる。
甘ったるい、決して何時もの彼ならば示さない反応をゲンドウは示している。マヤがカスパー３を使って得た分析結果と矛盾する言動ではない。しかし、それらは日ごろ決してチルドレンにも、実子にも、部下にも示されないゲンドウのある一面なのだ。
恐らくは、生前の妻、そして、自分が見ていないときの『レイ』にはある程度示しているものなのだろう。自分が愛する男の『醜態』とも取れる狼狽ぶり。
リツコは冷たい面持ちでキーの前で指をかすかに組み直す。
時は計られる。為した事は、計られる。
音声画面が再び開く。
「何なの。」リツコは先ほどまでの執着とは打って変わって落ち着いた声で報告者に語り掛ける。
「目標移動を開始しました。『新永楽橋』にてタクシーを捕まえ、『新江ノ島』へ向かう模様です。接触者を同伴したままです。」
「わかったわ。車を一台用意して。」リツコは命令しおわると画面を閉じた。
「レイ、行くわよ。あの男のところへ。」リツコは振り返り、冷たい笑い顔でレイを見詰める。
「…、はい。」レイは無感動に返事をする。表情に変化はない。リツコはその様子に眉を少しだけ動かし、嵩にかかるようにレイに言葉を継ぐ。
「あの人はあなたの『姿』を求めてるわ。」リツコは鼻で笑った。
レイはその言葉に表情を変えるでもなく沈黙を守った。
一台の黒い車が浜辺の前の道路に止まった。リツコはアンテナをしまい端末をもちその車の方へ歩みだした。レイもその後に続いた。
メネ・メネ・テケル…。
時は満ち、計られたが、それは足りてはいなかった…。
一言の聖句がリツコの胸によぎった。
新世紀エヴァンゲリオン列伝
其の壱 巻ゲンドウ
「逃げちゃだめだ、ゲンドウ」
または
ＢＥＴＲＡＹＥＲＳ ＯＦ ＴＨＥ ＴＲＵＴＨ
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